2012年08月11日
Najima Streets No22 かめ焼き道
かめ焼き道は多々良川東岸から河岸段丘の丘陵をのぼる
道で古い時代にこのあたりで甕を焼いていたことにちな
んでいます。古くからの通りの名残りは道沿いにある
古い木からもわかります。今は単なる生活道ですが、それ
ぞれ由来と意味があることを知るのも地域の愛着と歴史を
知る意味でも大切なことだと思います。
道で古い時代にこのあたりで甕を焼いていたことにちな
んでいます。古くからの通りの名残りは道沿いにある
古い木からもわかります。今は単なる生活道ですが、それ
ぞれ由来と意味があることを知るのも地域の愛着と歴史を
知る意味でも大切なことだと思います。
タグ :かめ焼き道
2012年07月14日
名島STREET No21 桃山道
名島小学校から陣の越にかけての高台は古くからの
居住地で古代の遺跡も発見されています。
名島streetも多く集まっています。この桃山道は
高台の地形を生かして昔は果樹園が広がっていたから
付けられたそうです。
居住地で古代の遺跡も発見されています。
名島streetも多く集まっています。この桃山道は
高台の地形を生かして昔は果樹園が広がっていたから
付けられたそうです。
タグ :名島ストリート 桃山道
2012年05月25日
いぼ地蔵道 Najima Street NO24
いぼ地蔵道は名島小学校前の道の反対側の
高台の頂上付近にあります。古くからご利益の
高いお地蔵様として有名で地元では篤く信仰
されてきました。
以前紹介した蓮華坂のわくろ石といい、いぼ
地蔵様の近くの地蔵寺といい、不思議な伝説
に包まれた地域です。
ある種のパワースポットのような場所です。
この地域の山の山林が全部開発されずに
一部でも今のように残っているのもご利益の
一つかもしれません。
右の道を登るといぼ地蔵さまです。左の道を進むと名島小学校の
前の道に出ます
前の道に出ます
タグ :名島ストリート いぼ地蔵
2012年04月17日
高又道 名島STREET No23
高又道の看板は高又地蔵尊野近くにあります。この近辺は
今は住宅街ですが古くは松崎本村へ抜ける道だったと思わ
れます。きっと昼なお薄暗い通りだったのではないでしょうか。
高又地蔵尊については少し調べたのですが詳しいいわれなどは
よくわかりませんでした。地蔵尊は道路のすぐ脇にあり今も
大切に信仰されています。
今は住宅街ですが古くは松崎本村へ抜ける道だったと思わ
れます。きっと昼なお薄暗い通りだったのではないでしょうか。
高又地蔵尊については少し調べたのですが詳しいいわれなどは
よくわかりませんでした。地蔵尊は道路のすぐ脇にあり今も
大切に信仰されています。
タグ :高又道
2012年04月10日
名島STREET No29 蓮華坂
蓮華坂は千早方面から博多バイパスを空港方面へ走り
松崎中学辺りの坂道です。今は立派な国道バイパス
ですがその昔は唐津街道でした。旧唐津街道は香椎駅
前を通り香椎宮参道先のJRの踏切を渡り、多々良中
学の前を通って博多バイパスに出ます。そして蓮華坂
を通って松崎の本村通りに入り多田羅大橋を渡って
箱崎方面へいきます。蓮華坂の看板は博多バイパスの
脇の小道にありそばには「わくろ石」もあります。
この小道は旧街道の一部と思われます。
わくろ石はかえるの形をしていてこの石の前で雨乞い
の儀式をしていたそうです。写真を撮っていると丁度
歴史散歩をしているグループがわくろ石を見に来てい
ました。
松崎中学辺りの坂道です。今は立派な国道バイパス
ですがその昔は唐津街道でした。旧唐津街道は香椎駅
前を通り香椎宮参道先のJRの踏切を渡り、多々良中
学の前を通って博多バイパスに出ます。そして蓮華坂
を通って松崎の本村通りに入り多田羅大橋を渡って
箱崎方面へいきます。蓮華坂の看板は博多バイパスの
脇の小道にありそばには「わくろ石」もあります。
この小道は旧街道の一部と思われます。
わくろ石はかえるの形をしていてこの石の前で雨乞い
の儀式をしていたそうです。写真を撮っていると丁度
歴史散歩をしているグループがわくろ石を見に来てい
ました。
タグ :蓮華坂 わくろ石
2012年03月27日
名島Street No25 岩名池通り
岩名池通りの看板は西鉄名島駅の南側の少し高台になった住宅地の
線路側の通りの一部に設置されています。通り名の由来は以前、岩名池
と言うため池があってそこから付けられました。現在は埋め立てられたようで
当時の場所はわかりません。が、今の地形から考えてJR鹿児島本線沿いに
公園が整備されていますが、どうもそこが怪しい感じです。というのも
水谷のほうの住宅地でも谷あいの溜池を埋めて公園にしているところが
あります。ここの公園も何となく以前はくぼ地か池だったような雰囲気が
あります。どなたか岩名池のあった場所をご存知の方がいらしたら教えて
いただけると嬉しいです。
線路側の通りの一部に設置されています。通り名の由来は以前、岩名池
と言うため池があってそこから付けられました。現在は埋め立てられたようで
当時の場所はわかりません。が、今の地形から考えてJR鹿児島本線沿いに
公園が整備されていますが、どうもそこが怪しい感じです。というのも
水谷のほうの住宅地でも谷あいの溜池を埋めて公園にしているところが
あります。ここの公園も何となく以前はくぼ地か池だったような雰囲気が
あります。どなたか岩名池のあった場所をご存知の方がいらしたら教えて
いただけると嬉しいです。
昔の岩名池の写真です。看板についています。
昔の岩名池があった場所ではないかと考えている公園です。
ご存知の方いらしたら教えてください
昔の岩名池があった場所ではないかと考えている公園です。
ご存知の方いらしたら教えてください
タグ :名島ストリート
2012年01月22日
渡し場道 Najima Street NO19
多々良川の渡し場跡はこれまで何度か取り上げましたが
渡し場への通り道に名島通り名、看板がかかっています。
3号線から名島踏切を渡って右側の塀に架かっています。
昔の渡し場の写真も入っており今の場所と比べると昔の
面影を感じられて面白いです。
名島STREET看板はここから松崎地区になります。
昔の渡し場の写真です。
現在の渡し場跡です。
渡し場への通り道に名島通り名、看板がかかっています。
3号線から名島踏切を渡って右側の塀に架かっています。
昔の渡し場の写真も入っており今の場所と比べると昔の
面影を感じられて面白いです。
名島STREET看板はここから松崎地区になります。
昔の渡し場の写真です。
現在の渡し場跡です。
タグ :渡し場道
2012年01月12日
飛行場道 Najima Street NO11
名島水上飛行場への道が飛行場道です。国道3号線の
焼肉レストランVOLKSのところから運動公園の前を通り
都市高速道路の下を渡り城浜団地の中へ続く道が今も残る
飛行場道です。当時は軍需道路で珍しいコンクリ舗装の
道路だったようです。看板の琺瑯写真には飛行場道と名島
火力発電所の引込み線も映っています。
焼肉レストランVOLKSのところから運動公園の前を通り
都市高速道路の下を渡り城浜団地の中へ続く道が今も残る
飛行場道です。当時は軍需道路で珍しいコンクリ舗装の
道路だったようです。看板の琺瑯写真には飛行場道と名島
火力発電所の引込み線も映っています。
名島運動公園正面入り口に看板があります。
現在の飛行場道です。
タグ :名島ストリート
2011年12月31日
船頭町通り 名島STREET NO12
名島STREET NO12は船頭町通りです。名島商店街の
裏通りにあたります。ちょっと見るとなんと言うことはない
路地にも見えますが、さすが歴史のある名島地区です。
ここは名島城主として国替えでやって来た小早川隆景公が
以前の領地、竹原から連れて来た水軍の船頭さんたちが
住んだところから付けられました。名島城は海に面し
多々良川河口が天然の外堀になる堅固な城だったようです。
きっと水軍も威力を発揮したことでしょう。
裏通りにあたります。ちょっと見るとなんと言うことはない
路地にも見えますが、さすが歴史のある名島地区です。
ここは名島城主として国替えでやって来た小早川隆景公が
以前の領地、竹原から連れて来た水軍の船頭さんたちが
住んだところから付けられました。名島城は海に面し
多々良川河口が天然の外堀になる堅固な城だったようです。
きっと水軍も威力を発揮したことでしょう。
タグ :船頭町
2011年12月16日
名島火力発電所引込み線道
西鉄名島駅前から国道3号線を渡り名島商店街のメインストリートを
通り国道事務所へ向かう道は以前昭和30年代まで火力発電所への
石炭を運ぶ引込み線が通っていました。今は当時の面影を感じるものは
ありませんが、西鉄名島から微妙に続くカーブに鉄道線路を感じます。
商店街の道筋の壁に当時の写真入りでストリート看板が設置されています。
通り国道事務所へ向かう道は以前昭和30年代まで火力発電所への
石炭を運ぶ引込み線が通っていました。今は当時の面影を感じるものは
ありませんが、西鉄名島から微妙に続くカーブに鉄道線路を感じます。
商店街の道筋の壁に当時の写真入りでストリート看板が設置されています。
右側の民家の壁に看板がかかっています。
タグ :引込み線
2011年12月07日
大名通り 名島Street No18
大名どおりは名島Streetで名島城の重臣の方々の屋敷が
あったところです。看板に昔の古地図が印刷されています。
場所は二の丸跡のある丘陵の多々良川側の麓でちょうど国道
事務所の裏あたりです。ここは今でも当時のメインSTREETが
生活道路として使われています。旧道沿いには今でも古い旧家が
ありますので名島城重臣の子孫の方々かもしれません。
二の丸から三の丸にかけての丘陵には今でも立派なお屋敷が
何軒か残されています。ちなみに二の丸丘陵には今でも古地図
にある空掘りの跡が残っています。
クリックすると古地図が拡大されます。
あったところです。看板に昔の古地図が印刷されています。
場所は二の丸跡のある丘陵の多々良川側の麓でちょうど国道
事務所の裏あたりです。ここは今でも当時のメインSTREETが
生活道路として使われています。旧道沿いには今でも古い旧家が
ありますので名島城重臣の子孫の方々かもしれません。
二の丸から三の丸にかけての丘陵には今でも立派なお屋敷が
何軒か残されています。ちなみに二の丸丘陵には今でも古地図
にある空掘りの跡が残っています。
クリックすると古地図が拡大されます。
タグ :名島城
2011年11月19日
発電所通り(名島street NO10)
名島運動公園の多々良川側の道に発電所通りの看板があります。
今の名島運動公園と九電の名島営業所は旧名島発電所跡地に
作られました。昭和の30年代の初めまで有名な4本の煙突も
残っていたようです。4本煙突は今で言うランドマークで
名島橋辺りから良く見えていたそうです。
今の名島運動公園と九電の名島営業所は旧名島発電所跡地に
作られました。昭和の30年代の初めまで有名な4本の煙突も
残っていたようです。4本煙突は今で言うランドマークで
名島橋辺りから良く見えていたそうです。
名島運動公園の塀に看板がかけられています。
昔の名島火力発電所の勇姿です。
タグ :発電所通り
2011年11月17日
岩見重太郎通り(名島Street 17)
豊臣秀吉の時代に名島出身の豪傑岩見重太郎は鬼退治や
父親のあだ討ちなど数々の武勇伝を残した人物といわれています。
後に名島城主となった小早川隆景に仕官し、後に薄田兼相と改名し
秀吉の子、秀頼に仕え大阪冬、夏の陣で活躍し夏の陣で壮烈な討ち死に
をしたと伝えられた人物です。今も彼の生誕の地といわれる場所が
小公園となって残されています。
父親のあだ討ちなど数々の武勇伝を残した人物といわれています。
後に名島城主となった小早川隆景に仕官し、後に薄田兼相と改名し
秀吉の子、秀頼に仕え大阪冬、夏の陣で活躍し夏の陣で壮烈な討ち死に
をしたと伝えられた人物です。今も彼の生誕の地といわれる場所が
小公園となって残されています。
タグ :岩見重太郎
2011年10月27日
潮汲み道
潮汲み道の看板は三の丸団地から内堀通りのほうへ
ゆっくりと下っていく途中ののり面をコンクリでおおった
崖下の小道です。昔は多々良川の河口の湿地帯が広く広
がっておりこの小道の側まで海岸線が来ていたようです。
潮汲み道とありますから塩代わりに海水を汲んでいた
ものと思われます。
ゆっくりと下っていく途中ののり面をコンクリでおおった
崖下の小道です。昔は多々良川の河口の湿地帯が広く広
がっておりこの小道の側まで海岸線が来ていたようです。
潮汲み道とありますから塩代わりに海水を汲んでいた
ものと思われます。
潮汲み道の小道です。
季節の草花の話題は姉妹サイト「東谷、メドウ便り」をご覧ください。
メドウな毎日のお気に入りから入ると簡単です。
季節の草花の話題は姉妹サイト「東谷、メドウ便り」をご覧ください。
メドウな毎日のお気に入りから入ると簡単です。
タグ :名島
2011年10月25日
内堀通り
名島公民館近くの建設省事務所の裏あたりで二の丸の
丘の下を通る通りが内堀通りで昭和30年代までここは
名島城の内堀が残っていました。看板には当時の様子の
写真が残されています。名島Street看板で感心するのは
こうした昔の写真を琺瑯看板に焼き付けて残してくれて
いるのはすごくわかりやすいです。歴史好きにはありが
たいことです。
丘の下を通る通りが内堀通りで昭和30年代までここは
名島城の内堀が残っていました。看板には当時の様子の
写真が残されています。名島Street看板で感心するのは
こうした昔の写真を琺瑯看板に焼き付けて残してくれて
いるのはすごくわかりやすいです。歴史好きにはありが
たいことです。
2011年10月21日
羽衣道
旧名島城二の丸のあった丘に登る道が羽衣道です。
名島城が出来るはるか昔に朝鮮や大陸からの渡来人
の方が多く住んでいたと言い伝えられています。
当時の住人の服装が羽衣を纏っていたように見え
たのでしょう。当時の渡来人の方の服装は最先端の
ファッションだったのでしょう。
現在の羽衣道です。
タグ :羽衣道
2011年10月04日
リンドバーク通り
リンドバーグ通りは旧名島火力発電所の引込み線辺りから水上飛行場
へと通じる道路で軍用道路としても使われ当時としては珍しいコンクリ
舗装だったそうです。名前の由来はかの飛行機冒険王のリンドバーグ氏が
奥様と一緒にここに来られた記念に名づけられました。
今は当時の面影を残すものは何もありませんが城浜団地の端に水上飛行場跡の
碑文と通り名看板が残されています。
へと通じる道路で軍用道路としても使われ当時としては珍しいコンクリ
舗装だったそうです。名前の由来はかの飛行機冒険王のリンドバーグ氏が
奥様と一緒にここに来られた記念に名づけられました。
今は当時の面影を残すものは何もありませんが城浜団地の端に水上飛行場跡の
碑文と通り名看板が残されています。
2011年08月24日
学校道と正水池
千早方面から松崎のメインストリートの3号線バイパスを進み蓮華坂を
越えて松崎中学前から名島小学校へ抜ける道は学校道と呼ばれていて
道沿いの溜池、正水池の近くに名島Street看板が設置されています。
昔はうっそうとした杜の中を通る学校道だったそうでいまでも松崎3丁
目辺りの丘陵に面影が残っています。
ここの正水池には松崎の歴史のなかで面白い逸話が残っています。
明治の頃この正水池の周りで夕暮れになると不気味な獣のような唸り声が
聞こえ、村で大騒ぎになったことがありました。村の青年達が大捜索した
ところ正体は九大の農学部から逃げ出した食用カエルだったそうです。
初めてあの声を聞いた当時の村人の方はさぞかし驚いたことでしょうね。
越えて松崎中学前から名島小学校へ抜ける道は学校道と呼ばれていて
道沿いの溜池、正水池の近くに名島Street看板が設置されています。
昔はうっそうとした杜の中を通る学校道だったそうでいまでも松崎3丁
目辺りの丘陵に面影が残っています。
ここの正水池には松崎の歴史のなかで面白い逸話が残っています。
明治の頃この正水池の周りで夕暮れになると不気味な獣のような唸り声が
聞こえ、村で大騒ぎになったことがありました。村の青年達が大捜索した
ところ正体は九大の農学部から逃げ出した食用カエルだったそうです。
初めてあの声を聞いた当時の村人の方はさぞかし驚いたことでしょうね。
正水池の看板です。ここの前の道が学校道で名島小学校へ続いています。
名島Street看板、No26の学校道です。昔の写真が写っています。
現在の学校道です。
昔の写真の拡大です
タグ :学校道 名島StreetNo26
2011年08月16日
名島の高射砲陣地跡
戦時中福岡には都市防衛のために高射砲部隊が置かれていました。
そのうちの一つが名島に置かれていたそうですが残念ながらその場所は
明確ではありません。ですが名島地区の通り名を記したストリート名看板が
各地に設置されていてそのうちの一つにNo20「高射砲陣地道」が現在の名島4
丁目の多々良川沿いに県道549号線から上流に向かって左手の小高い
丘へ伸びる道沿いに残されています。この道を登ったところには現在
マンションが建てられていますがここからは名島城、千早、香椎方面
の見晴らしの良い場所です。おそらくこの近辺に設置されていたものと
思われます。
そのうちの一つが名島に置かれていたそうですが残念ながらその場所は
明確ではありません。ですが名島地区の通り名を記したストリート名看板が
各地に設置されていてそのうちの一つにNo20「高射砲陣地道」が現在の名島4
丁目の多々良川沿いに県道549号線から上流に向かって左手の小高い
丘へ伸びる道沿いに残されています。この道を登ったところには現在
マンションが建てられていますがここからは名島城、千早、香椎方面
の見晴らしの良い場所です。おそらくこの近辺に設置されていたものと
思われます。
左手に見えるマンションのあたりに高射砲陣地があったのではないかと思います。
タグ :高射砲陣地道
2011年05月20日
城山道・名島StreetNo8
名島Street NO8は「城山道」です。
NO8の看板は七衛屋敷前の旧道を香椎方面へ進むと間もなく
北側へ坂が続き、名島城の本丸・天主跡の名島城址公園へ続く
道があります。その入り口の民家のコンクリートの壁にNO8
の看板はあります。看板には昔の古地図が描かれており、現在
地が登城する時の大手門へ続くメインStreetだったこと
がわかります。お城への正面は河口に面した名島神社の鳥居と
石段のあるところだと思っていたので意外でした。
また以前、城址公園の北側にある石積みがお城の石垣かもしれ
ないと書いたのですが、違っておりました。石垣跡はこの城山
道を登って城址公園の入り口に至る道を工事中に発見されたそうで
一部が顔を覗かせています。名島城の石垣の石や門などつかえ
る物は黒田長政公が舞鶴城を作る際に持って行ったので名島城
跡には当時のものはほとんど残ってないそうです。
次回NO9はリンドバーク通りです。
NO8の看板は七衛屋敷前の旧道を香椎方面へ進むと間もなく
北側へ坂が続き、名島城の本丸・天主跡の名島城址公園へ続く
道があります。その入り口の民家のコンクリートの壁にNO8
の看板はあります。看板には昔の古地図が描かれており、現在
地が登城する時の大手門へ続くメインStreetだったこと
がわかります。お城への正面は河口に面した名島神社の鳥居と
石段のあるところだと思っていたので意外でした。
また以前、城址公園の北側にある石積みがお城の石垣かもしれ
ないと書いたのですが、違っておりました。石垣跡はこの城山
道を登って城址公園の入り口に至る道を工事中に発見されたそうで
一部が顔を覗かせています。名島城の石垣の石や門などつかえ
る物は黒田長政公が舞鶴城を作る際に持って行ったので名島城
跡には当時のものはほとんど残ってないそうです。
次回NO9はリンドバーク通りです。
城山道です。左に看板が見えます。
現在の本丸跡地です。前方に天主台が見えます。
石垣跡です タグ :城山道